邪馬台国はどこに?

 1)なぜ邪馬台国に到達できない?

 わが国の古代史における最大の謎と言えば、やはり、「邪馬台国は何処に存在したのか?」ということでしょう。
 邪馬台国については、江戸時代から、本居宣長などによって検証されてきていますが、いまだに結論が出ていません。
 では、歴史の専門家もアマチュアも含めて、数多くの人々によって検証されてきて、どうして結論にいたらないのでしょう。
 まず、結論から先に言いますと、出発点が間違っていたからです。間違った方向に進んでいる限り、邪馬台国には決して到達することはできません。
 では、出発点がどのように間違っているのでしょうか。
 邪馬台国については何に記されていると思いますか?
 「そんなこと決まっているよ、魏志倭人伝だよ」
 ほとんどの方が、そう思っておられることでしょう。
 このことが、邪馬台国に到達できない最大の原因なのです。
 「そんなばかな。魏志倭人伝に書いてあるんじゃないの?」
 ところが、そうではなかったのです。

2)魏志倭人伝には邪馬台国についての記述はない!

 実は、邪馬台国へどうやって行くのかなんて、魏志倭人伝には全く書かれていなかったのです。 魏志倭人伝の詳細はコチラ⇒
 魏志倭人伝のどこをどう見ても邪馬台国への行き方なんか書かれていません。
 ほとんどの方が、勘違いされているのです。
 あらゆる専門家の方々も間違っていたのです。
 では、何をどう間違っていたのでしょう。
 まず、文字です。壹と臺という文字についての誤解がすべてだと言ってもいいでしょう。
 おそらく、分かりにくいと思うので、拡大しますね。
 壹 臺
 この二つの文字を見分けることができないという誤解です。
 左の壹という文字は、数字の一を意味する文字です。
 領収書や神社の寄付金の表示などに使われています。
 一は、他の数字に書き換えられる可能性があるので、間違いがないようにとこの文字が使われます。弐とか参も同様です。
 右の臺という文字は、皇帝の居するところを意味する文字です。言ってみれば、皇居のようなものです。
 全く、意味が異なる文字です。
 今の我が国の常用漢字にはこの臺という文字がないので、台が代用されています。
 どうでしょうか。皆さんも判別しにくいでしょうか。
 ところが、魏志倭人伝の作者である陳寿が、この文字を書き間違えたと解釈されているのです。
 漢字の国の歴史学者といった方が、この二つの文字が似ているので、書き間違えたというのです。
 私は、そんなことはあり得ないと思うのですが、我が国の歴史学者も含めて、ほとんどの方がそのように考えておられます。
 つまり、我が国の邪馬台国の検証は、陳寿が書き間違えたという解釈で成り立っているのです。
 もし、間違っていなかったら我が国の歴史研究は、根底から崩壊してしまいます。
 私は、その陳寿が書き間違いなどしないと思うのですが、皆さんはどう思われますでしょうか。
 では、ここからが、本題なのですが、前置きが長くてすみません。
 ずばり、魏志倭人伝に記述されているのは、「邪馬壹国」とあるのです。
 邪馬壹国
 皆さんがよく知っている道順に登場するのは、邪馬台国ではなく、邪馬壹国と記述されているのです。
 「えっ、でもそれが邪馬台国の事じゃないの?」
 それが、今の我が国の邪馬台国論争の基本となっているのです。
 ですから、作者の陳寿が本来「臺」と書くべきところを「壹」と書き間違ったと解釈されているのです。
 この邪馬壹国に女王卑弥呼がいました。ですから、邪馬台国に女王卑弥呼が居たとほとんどの方が勘違いされています。
 「えっ、邪馬台国に女王卑弥呼が居たんじゃないの?」
 女王卑弥呼は、邪馬壹国には居ましたが、決して邪馬台国にはいませんでした。
 「えっ、どういうこと?」
 大体、このあたりで皆さん訳が分からなくなってしまいます。
 当時、この列島には、邪馬台国と邪馬壹国とが存在していたのです。
 魏志倭人伝ではなく、後漢書にそのことについて記述があります。
 大倭王居邪馬臺國
 後漢書に、この列島の大倭王が邪馬台国に居たと記述されていました。
 ですから、邪馬台国に大倭王がいたことには間違いありませんが、決して卑弥呼ではなかったのです。
 「じゃあ、卑弥呼は?」
 卑弥呼は、女王国「邪馬壹国」にいました。
 後漢書には、邪馬台国とは、別の国として記述されています。
 有一女子名曰卑彌呼
  自女王國東度海千餘里至拘奴國
 後漢書には、大倭王とは別に卑弥呼の記述があり、その女王国から東に海を渡って行くと狗奴国があったとしています。
 ですから、女王国は九州に存在していました。
 そして、女王国邪馬壹国と大倭王の居する邪馬台国とは全く別の国だったのです。
 従って、「邪馬台国の女王卑弥呼」という認識は、全くの誤りだったのです。
 同様に、魏志倭人伝にも、卑弥呼とは別に倭王が登場しています。それが、邪馬台国に存在していた大倭王だと言えます。

3)邪馬台国は、どこに?

 では、いよいよ、邪馬台国が何処に存在したのか、一番の核心に迫ります。
 これから私が述べる内容は、我が国のほとんどの方の認識にはありません。
 これが分かった時、本当に愕然としました。
 邪馬台国への道順は、隋書に登場していたのです。
 皆さんも、隋に送った国書に隋王朝が大変激怒したということはご存知だと思いますが、その翌年に、隋の使者がこの列島の倭王のところにやってきました。その使者の道程をたどれば、この列島の大倭王の居るところが分かります。すなわち、そこが、この列島の都であり、邪馬台国です。
 隋の使者は、北九州に上陸して、東に進みます。そして、10余国を経て「海岸に達した」とあります。
 下関のあたりから、海を航行して東に行けば、海に出たとは描きません。瀬戸内海沿いの陸地を行ったとしても、常に右手に海が見えています。そうなりますと、中国山地を超えて日本海側に出たのではないかと考えました。そうしますと、そのルートは、今も国道9号線として残されています。そこを行きますと、益田に出ます。まさに、海岸に達したというエリアです。
 そして、そこで歓迎の式典が催され、10日ほどして都から騎馬隊のお迎えがやってきて、その数、200騎とあります。
 これらの記述を見た瞬間、「これって、出雲?!」と閃いたのです。
 10日という距離感や、200騎もの騎馬隊で迎えに来るということは、騎馬民族であるところの出雲王朝だろうと考えました。
 この時、それまで思いもよらなかった『出雲が都だった』という認識に到達したのです。
 そして、同じく隋書には、その当時の都は、魏書の頃の都『邪馬臺国』と一緒だという記述もありました。前述したあの魏志倭人伝に登場していた倭王のことです。
 つまり、長年議論されている『邪馬台国』は、実は出雲に存在していたのです。
 さらに、『景初3年』の銅鏡が出雲の地で発掘されていたことにより、出雲が都であり、かつ『邪馬台国』であったことは動かしがたい事実として確信を強めました。
 邪馬台国は、出雲に存在していたのです。
 これが、私が到達した邪馬台国の実在した場所です。
 はたして、皆さんはどう思われますでしょうか。
 ただ、邪馬台国がどこに存在していたのかは判明しましたが、それで終わりではありません。
 その出雲に存在していた邪馬台国が、どうなったのかを解明しなければなりません。
 いったい、邪馬台国はどうなってしまったのでしょうか。

 

 邪馬台国はどうなった? ⇒

  動画 「邪馬台国に至るために 第2回 邪馬台国に至る」 ⇒